また、衝動的な行動を取ってしまった。
どうして、好きな人にこんなにも上手に接していけないんだろう。どうしてこうやって、つまらない意地を張ったり、やけっぱちになったりして、相手を不快にさせてしまうんだろう。だから、あの人は私を好きになんて、なってくれないんだなぁ。
そんな事をもんもんと考えていた。ベッドに入っても、コーヒーを沢山飲んだ所為で眠れないし、もう周囲は次第に明るくなっていってしまう。
ふと、逃げたくなった。好きという気持ちからも、今の状況からも。もっと違う人を選ぼうかと考えた。けど、そんな下らない連鎖は絶対に生みたくない。本質から逃げて、適当な人物を選ぶということ。それはあの人が私にしてきたことだ。だから、その考えを消去した。
また、悔しい気持ちがこみ上げてくる。でも、私だけの所為じゃないでしょ。あの人が私を不快にさせるようなことを言うのも悪い。けど、やっぱり、私もその原因を前に生み出しているのだ。結局は連鎖なのだ。なにをしても、それはくるくると回る『わっか』の中のひとつに過ぎない。



結局上手く眠れなかった。そのくせお腹が減ってしまったので、私はリビングに降りてお菓子をぽりぽり食べながら、ストーブの前でうずくまっていた。退廃の色。
「雪つもってるぞ。」
あまり普段活発に会話をしない父が、背後からそう報告してくれた。私は急いで外を見る。そうだ、夕べのテレビ、天気予報雪だった。
外は、本当に心地よいまでの白だった。空が白いのは、めったに見られるものではない。昔よりか遥かに興奮が薄くなった心で、私は窓の外を見つめた。雪に関する歌を数曲思い浮かべた。けど、どうにもしっくりこない。ただ、自分の切ない悔しい心には結構それらの歌は適切で、逆にちょっとむっとした。
こういう瞬間、ふと不思議になる。父が後ろにいる。そして日本茶を飲みながらパジャマ姿でテレビを見る。兄や母は自分の部屋で布団に包まっている。それが家族の光景。ごく普通の、休日の朝。なんの問題も角を出せない圧倒的な時間。だけど、私は雪を見ていた瞬間、頭は恋でいっぱいになっていた。もやもやして、いらいらもしている。部屋の空気と、私の心情の差。その違和感には慣れない。


もう一眠りして起きてみると、4時。本当に退廃の色。
悔しいから、散歩に出ることに、した。

でも。なんにしてもね、お風呂入ってさっぱりして、少し心地よい気分になると、少しだけ何らかの幸せを思い出すんだ。本当の優しさ。優しいものの心地よさ。そうありたいんだ。それが一番なんだ。
無理をする自覚を重く感じるよりも、無理をしても笑って楽しいと感じられるならば、もしかしたらそれが一番美しいのかもしれない。

再生も、死も、いつ訪れるか分からなくて、知らないうちに自分の心はあっさりと死んでいたり、生き返っていたりする。本当に、何がなんだか、よく分からない。磨り減っているのかもしれない、けれど、どこでどう磨り減っているのか、何が悲しいのか、考えるほどよく分からない。


時々思う。人は、綺麗な事を言う。私も、綺麗な事を時々考える。綺麗過ぎること。でも、その裏に、どこまで汚いものが潜んでいるんだろう。
本当に大切な恋だと思っているものは、もしかしたら性欲なのかもしれないと思うときがある。
誰かが私に助けを求めてきた時、その人を助けようと思う。けど、それはただ、自己満足したいだけなのかもしれないとも、思う。
本当に純粋な優しさなんて、世の中にないとしたら、私は普通なのかもしれない。けど、違うとしたら、私はなんて醜いのだろう。どうして未だに、家族に所属したくないのだろうか。どうして大学でグループとして動きたくないのだろうか。どうして私は衝動的な自分勝手な行動を、何もかも掻き捨ててできるのだろうか。たった一瞬の喜びのためだけに。
私は自分に理想を持ちすぎなのだろうか。



とある所に、本当の自分探しなんて必要はないんだ、という言葉があった。それは下手をすれば現実逃避にもなり得ると。ありのままの自分を受け入れることが大切らしい。私はその言葉を見た瞬間、その考えを掻き捨てた。本当に悩まなければ、何が分かるというのだろう、と、思った。
けれど、きっと私は遠回りをしている。きっと皆、どこかで腰を据えて、正しい方法で何かを見つけているのかもしれない。ありのままを受け入れることによって生まれる、何らかのものを、きちんと吸い取って、上手に生きているのかもしれない。
それに負けたくないのだ。



自分の混乱の要素が多すぎるのかもしれない。言葉に捕らわれるぎているのかもしれない。そういう寒い日は、幸せを考えるよ。

知ったかぶりの自分、いやだ。だから、何にも知らない子でいたい、けど、私より何も知らない子の前だとそうもいかない。けど、私は事実、何も知らない。知らないんだってば。それを知ることが重要。



最近、自分が奢り高ぶっている。色んな波をそれなりにひと段落させて、ほっとして、なにやらいい気になっているようだ。私は本来そういう性格であり、何かと他人に自己を顕示したがるのだ。自己主張の強い人間なのだ。
そういう自分は一番嫌いだし、そんなお嬢様的な要素を外面には絶対に押し出したくない。そこまでお金持ちでもないくせに、気質だけはお嬢様な自分なんて本当に勘弁してほしいのだ。実際の内容が伴う方がされていれば、それなりに美しくは見えるけれど、貧乏人根性も持ち合わせる人間がそんなことしていたら、正直情けないしだらしない。
ハングリーで常にありたい。



けど、最近考える。人間の本質と性格って、どんな風に直していけばいいのだろう。本質が腐っているのならば、性格なんて良くなりえないのではないのだろうか。難しい。本質と理想像の差が激しい。

会いたい人に会えなかった。くやしい。無理してでも会いに行けばよかった。くやしい。
やりきれなくて眠れなかったなんて始めてだった。夜が異常な空気を放っていた。
やりきれない気持ちが続いているのがさらにくやしい。くやしすぎて文章にするしかない自分もくやしい。

飲んでその後、その人の家に泊まりこんで、帰る時。つまり、朝。テンションが低い。正直、その人の家は私にとって眠りにくすぎて、体ががちがちになっていた。そしてよく眠れなかった所為で、なんだかまだ酔っ払っている気持ちだった。
そんなんで。どうにも昨日の夜の続きを歩いている気持ち。まだ夜なんだよと言われても、私は納得しただろうけど、周りにそんな奇特なことを言ってくれる人はいない。誰も道にはいないんだから。お正月で。皆きっと眠っていたりするんだ。
そんなこと思いながら、歩いていた。


「年賀状届いてないよー」
という子供の声が聞こえた。急に頭叩かれたような衝撃。それをあざ笑うように、真横を自転車で駆け抜ける少年のスピード。
皆朝だった。私だけ夜だった。くやしい。

優しさの本質について。



本当の優しさっていうのは強さだ、という言葉。それは時々耳にする。私にはどうにも、理解しきれなかったけど、昨日なんとなくそうかも、って思った。
本当の優しさを持ちうる人と、昨日飲んだ。話を聞いていて、思った。漠然と。

優しさは、本当に人の為になることを、利益も何も求めずにただ行い、そして、その事について見返りもなにも求めないこと。言葉にすると違うように思えるし、どこか安っぽい。けど、結局、自分が優しい人間だと言う事は、少しずれているのだろうな、と思う。
過剰に優しいのも、優しさではないし、優しさに暖かさが必ずついている訳では絶対にないのだろう。それは、孤独だったり、途方もなかったり、するのだろう。多分、続けていくと、磨り減る類だ。

優しさと心の広さって、どう繋がっているのだろう。心の広い人間は優しいのだろうか。優しく、見える。怒らないから。けど、本当に優しい人間は、怒りうる。許容と優しさ。これは、違う。けど、私がなりたいのは、どっちかというと、許容の方なのかも知れない。何もかもを許したい。けど、それはきっと優しさとは違う。

新年の目標。立てた途端に少し捻じ曲がる。そして、言葉に捕らわれないという目標も、破る。これって言葉遊びだ。要するに、どんなものか体で覚えなければ。言葉なんて目や耳をするんと通り過ぎて飛ばされていってしまうんですから。