沢山の毎日を生きてきた。なんだか最近大分落ち着いた気がする。



正直に言って、良人さんとの関係は元通りになってしまった。
私は結局、あの人が笑っているところを近くで見ていたいんだ。どれだけ不純な遊びだとしても、私はあの人に触れることが大好きになってしまったらしい。まさか、そこまで私があの人のこと大切になるとは、思ってもいなかったのに。一瞬だけのつながりだと思ったのに、なぜかだらだらと一緒にいてしまい、恋人じゃないのに離れない。必要じゃないのに、いないと寂しい。
けど、その関係を大切に思う。きっと、愚かなだけなんだろうけど、私はここから生まれる何かが無いわけではないと思う。そう考えて生きていくのが一番自分らしい。
悪いことをしても、何かそこから大切なものや、幸せなものが見つかれば、それは罪だとは言えない。その考えは裏に甘えが潜んでいるかもしれないけれど、事実としてそうならば、私はそこから大切な何かを引き出せる。
喪失と生産で、喪失の方が勝っていたとしても。そうして生きていくのが私にとって最良な気がする。



そして、聡久と私は仲違いをして、もう聡久に心を開くのをやめてしまった。どれだけ聡久が心を開いてくれても、私は彼に何も開かない。



最近はきちんと学校に行くことにも慣れて、勉強をするのも苦痛ではなくなった。ただ、長い間集団で行動するのは、あまり好きではないから、時どき何処かにひとりで消える。帰ったら、皆何事も無かったかのように受け入れてくれるから、安心する。そういう軽い距離感は大切。



幸福について。結局何も見出せていない。不幸については分かった。
不幸っていうのは、状況の不幸と精神の不幸がある。状況の不幸っていうのは、本当に置かれている立場が不幸なこと。精神の不幸っていうのは、案外幸せな環境にいるのに自分の不幸を探して、その見つけた不幸に酔ってしまうこと。私たちが一般的に許せないのは、精神の不幸。本当に哀れむのは状況の不幸。状況の不幸を抱える人は、精神の不幸を持つ人を憎む。自分の不幸に酔いしれるような人に。
けれど、私は思う。本当に不幸な所にいるならば、とことん不幸を味わってしまうのも、悪くない手だ。そうして、その後に幸福を探し出せるのならば、その不幸は無駄にならない。むしろ「プラス思考」という名のもとに思考を停止させる人間は、決して何も掴めない。
そうやって、不幸についてなら理解が出来たのに、どうして幸福については難しいのだろう。何が幸福?本当の幸福って?幸福を祈ることって?私は何も分からないから、今を幸福だと思う他ない。確かに私は今、幸福だ。不幸ではないから、幸福でいられるんだ。妥協した幸福でしかないけれど。



笑顔っていうのは力があって、人が笑っているのを見るだけで、本当に幸せな気持ちになることができたりする。本当にこの人笑っているな、って思ったら、自分まで笑える。それは、面白いという笑いよりも、優しい笑顔。楽しい話じゃなくて、他愛もない天気の話をしている時とか、そういう瞬間に笑っていられること。とても暖かい。
逆にいって、相手を笑顔にさせたい時は、自分が笑ってしまうのが手っ取り早い。それも乱暴な笑顔じゃ駄目。暖かい笑顔を浮かべることが大事。それは作り笑いでしかないかもしれない。けど、そうやって何か、相手の笑顔を見られるのなら、それが何の罪になるだろう。
もし、そうやって相手が笑ってくれないなら、それはその人が笑うことの出来ない何かを抱えている。例えば、私が嫌いだったり、今笑うことの出来ない不幸な何かを抱えていたりする。



人間は完全に悟ることなんてできない。考えたことは全て幻想と同じ。けれど、それは大切な何か。
随分前に聞いた話。今いる世界は、本当は自分の脳が生み出した幻想でしかなくて、自分の実態も全て幻想で、寂しい何もない場所に自分の脳がぽつんと浮かんでいるのが本当の現実かもしれない、という話。一時期、ずっとそれが本当だとしたら、真面目に生きる意味なんてないと思っていた。けれど、それは違って、どんな幻想だとしても、そこから生まれる何かが自分を動かして、幻想の中だとしても幸福や不幸を見出せる。それが一番重要なんだと思った。
私たちは、実態なんて掴めない。けれど、掴めなくとも私たちはそれを見据えるのが大切で、諦めたなら全てが本物の幻想になってしまう。だから、考えて傷ついて喜ぶことが必要。



自分の人生なのに自分が他人みたいなのは、どうして?それは分からない。沢山のことかんがえよう。きっと自分が他人でも、それはいつか何かになる。生産より喪失が多くても、どこかに行ける。大切なあの人や、大好きなあの子のこと考えながら。その人を知りたかったり、その人に会いたかったり。