ものすごく自分にしては早いスピードで色々変わってしまった。
けど、いまいち何が変わったかは分かっていなくて、起こったことだけなんとなく把握している。





生活習慣は夜に寄って行って、昼間がすっかり自分のフィールドではなくなってしまった。昼間は疲れる。夜は落ち着く。
煙草は私の体の一部になって、無ければ寂しくて死んでしまう。というより、無いことが考えられない。
友達というものは素敵なものではなくなってしまった。今までは、殆ど全ての友達というものを愛していたけれど、新しい友達はあんまり愛情を抱けない。友達=素敵という感覚じゃ、もうない。
私服を毎朝選ぶのも慣れて、お金を使うことも当然になった。面倒くさくても服を買い足して、一日が終わる時に明日の服を考える。わくわくはするけれど、あまり上手に着こなせてるとは思えないし、時どきおっくう。着飾ることに意味合いを感じられなかったりもする。けれど、お気に入りの服や小物を見つけて、持ち歩き始めた時のあの昂揚感は、未だに昔と変わらない。
ご飯よりお酒になって、一日に水かコーヒーは必ず摂取して、そのかわりにまともなご飯は滅多に食べない。とりあえず、お腹が減ったらチョコレートだ。その食生活を、何だかんだ気に入ってる自分が一番怖い。
家族は近くにいない、遠い存在。私は今、家族が何を思っていて、何をしているかなんて、見当もつかない。それが、心地よくて、楽だ。考えたら、恐ろしいことしか待っていないから。
そして、なにより、生きることが苦痛にならないかわりに当然になった。





あと、一番のショックなこと。私は恋をしたのだ。もし恋の意味が「異性に大きな好感を持つ」という意味なら、まさにそう。実際恋とかそういう感覚をよく理解していないから、なんとなく違和感がある。恋はもっと、純粋で美しいものだと思っていた。なのに、性欲とかも絡んでいたから、色々不透明。今までした恋とは全く違う。もっとシビアで、日常の匂いが抜けなくて、泥臭くて、暖かい。あまり美しくも、甘くも無い。だけど、とにかく私はあの人の幸福さえ祈っていた。真剣に祈った。
そして、キスとかそれ以上もしてみた。よく分からない状況で、とにかくしてしまった。「された」ではなくて「した」。受け身だけど、合意。最後なんて誘いかけた。そういう風に、私は世間一般が美しく扱うものたちを捨てた。暖かくて、そして、苦しかった。





変わっていく何かに追い付かないで、私は多分日常に乗り込んでいないのかもしれない。ここは自分の場所ではないと思っている節があるのではないかな?
それでも人生は続いていくし、日常は流れる。変形も逆転もしながら。何かに捕われても、何かに届かなくても。過去に生きても。理想を失っても。生きるってきっとそういうつまらない些細なものなのだ。死は驚く程大きい出来事だけど、反対に生きることはものすごく簡単だ。理想さえなければ。





とにかく、そんなふうに私は流れている。流れていく。流されるわけでも進んでるわけでもなく、前進でも後退でもなく。
幸せを考えながら。それを求めながら。与えることを欲しながら。
与えたくてしょうがない人を探しながら。





幸せの輪郭が見えてきた。きっと、それは、世間一般では、恋の中に居る人しか使わない表現。だからきっと、自分の存在が安定していられて、愛というものを強く感じていられる所。
私は、そんなことだけが幸福だとは思っていないけれど。もっと、違う幸福が、沢山足元にある。











エンドロールのようにBGMの流れる喫茶店で、私は日常のいざこざをまとめていた。ああ、いつ死んでもいい。そう思いながら。幸せな気持ちで、コーヒーを飲みながら。