愛菜
私のお母さんみたいな、ただの友達みたいな、親友みたいな子。あの子は別に話を聞いてくれない。たくさんの話をする。そして、時にそれに退屈する。でも、退屈しても、何度も同じ話ばかり聞かされても、私はあの子が好きだ。



あの子には力があって、その力はなにが起こっても廃れない。ふられても、両親が離婚しても、友達と喧嘩しても。揺らいだとしてもいつかあの子は元に戻ってきて、どっしりと構えて、弾ける様に毎日を生きている。生命力に溢れている。よく食べて、眠り、話し、笑い、怒り、運動し、悩む。ああ、人間の匂いがする、としみじみ思う。平凡なことを、なんて上手に切り抜けて、生きていくのだろう。



彼女は、周囲を照らすのだ。明るく、強く。彼女の話が退屈だけど好きだと思うのは、彼女の考え方を垣間見て、強く動かされるからだ。あの子は強くて、正しい。真っ直ぐだ。灯台みたいに光っている。
それに照らされて、私は戸惑うのだ。正しい方向が分からずに、違う道を行こうと決意していたのに、彼女はふと現れて、本当に真っ直ぐで純粋で正しい生命というものを、煌々と知らしめる。
例えを変えると、それは聖母みたいでもある。後光が射していて、思わず抱きつきたくなる。暖かな胸に飛び込みたい、みたいな衝動。欲とか、そういうものから離れている、ただの本能的な尊敬とか甘えとか愛しさとか、そういう気持ちで、私は彼女の胸元を見る。別に、愛に溢れた人ではない。もっと一方的な思い込み。例えば教会に飾ってあるステンドグラスのマリアを見て洗われる気持ちになるような、そんな感じなのだ。(ふっくらした体型や竹を割ったような性格から見たら、本当は表現的には『おかん』という感じの方が強いけど。)



そういう存在はものすごくかっこいいけれど、怖い。自分の不道徳さも卑小さも思い知らされるからだ。そして、愛菜もその卑小さを、真っ直ぐにさらっと指摘する。それは、あんたが悪い、という言葉をすんなり吐いてくれる。けなされても、愛菜は聖母だから、憎めない。否定した彼女を恨めずに、自分を恨んでしまう。自分はこんなに罪深いのだと。
彼女と話すと、皆がそういう感覚に捕らわれる。愛菜と話すと、皆が揃って反省している。自分の愚かさを。
それを見て、愛菜は相手に優しい言葉をかけて、送り出していく。そういう事を、別段意識せずにやってのける。


そんな力を持つ人はきっと少ない。だから、大切なのだ。どんな優れたカウンセラーよりも、愛菜の方が力があると思う。