本当にすきだ。しみじみそう思った。東京の空を貶す奴は、バカ。上を向いているので、マフラーがずれて、首元が寒くなった。それを上を向いたまま直す。
「いつになったら君は真っ直ぐ向いて歩いてくれるんだ。」
ぽちぽちと携帯を打ちながら(つまり、下を向きながら)横を歩く翔くんがため息をつく。私はしらんぷり。川原の湿ったつめたい空気が、無視した事も全部凍らせてどっかに飛ばしてくれるのを信じて。
それにしても、変な話。どっちも前を向いていない。下か、上。でも、一般的には私の方が美しく、優れていると思う。携帯を見ながら歩いていて人にぶつかるより、空を見ながら歩いて人にぶつかった方が、美しくはないかな。ちょっとした優越感。常識的には明らかに前者のほうがありうるっていう考えは無視した。くすんだ灰色のまざった、青空。そこに少量の分厚い雲。影は、澄んだ灰色。
「なぁ、香奈ちゃん、いい加減上向くのやめようや。」
「しょうがない。じゃあ、下を向いてあげよう。」
私は斜め下の川原を見た。音をたてずに流れていく、水。マフラーは、丁度口元に当たって、暖かい。思わず目を細めた。翔くんは、小声で私に文句を言いながら、ぽちぽちと歩き続ける。
ああ、今の瞬間、私は丁度、からっぽだ。心地よい。何もない。私はどこにも属していない。誰でもない。まるで、世界への反逆みたいだ。



「で、香奈ちゃん。あいつとはどうなった。」
翔くんが私のからっぽを壊した。前から思っていたけど、こいつは無粋すぎる。人の平穏をさらりと俗っぽい言葉で壊して、無理やり中に入ってくる。強い口調と雰囲気で、有無を言わせてくれない。最終的に、無視させてくれない。
「さいてー。翔くんさいてー。」
マフラーのせいですこしくぐもった声が、あんまりにも単調なので自分でも驚いた。だって、でも、上を向くなとか、どうなったとか。そんな言葉今はいらないのだ。
「俺が最低?あいつが、じゃなくて?」
私の気持ちなんてお構い無しに、翔くんはすこしにやついた声で言う。
「翔くんさいてー。」
「確かにな。俺も似たような人種だしな。」
そういって、低く笑う。最低なのは、確かに翔くんでもあるが、同時にあいつでもある。そうやって、結局あいつの最低さと翔くんの最低さを比べ始める。つまり、あいつのことを考えている。そうやって、翔くんは私を追い詰めるのだ。冬の寒い空気が、ずっと長い間外にいることを許さないように。
そういうやり口が、あいつにそっくりなのだ。無理やり自分の胸の中に閉じ込めてくるくせに、今にも手放すぞ、みたいな雰囲気を醸し出して、じわじわ私を追い詰める。スリルを楽しんでいるのがよく分かるのだ。最低。
「で、香奈ちゃん、これからどうするの?」
私は、遠く前を向いた。口元が寒くなる。けど、そうじゃない。目の前はすごい光景だった。私は何も答えなかった。すると、翔くんもそれに気づいた。前を見て、黙り込んだ。



強い光柱。雲間から、真っ直ぐ伸びている。何処かの家に向かって。そして何処かを照らして。あそこに天使がいると言われても、私は信じる。まるで、希望みたいな、天国みたいな。すこし霞んで、でも揺らぐこと無い直線で、光は雲間から地上に光を届けていた。冷たい川原の空気も、湿った草も、その光柱に続く為に道にしかすぎないように思う。
ああ、本当は、なにもないのだ。ちがう、何を言っても違う。私がどれだけ追い詰められる現実に悩もうとも、翔くんのからかいも、その光を表現する事も。すべて違うのだ。きっとあの光も嘘なのだ。全ては嘘にしか過ぎない。あの光の前では、全て、形を変えて歪むしかない。けれど、私の目にも、翔くんの目にも映る。
「ああ、こういう光で天に召されたい。」
翔くんは呟く。なんて無粋な言葉だろう。けど、それも事実なのだ。光の前では何の価値も成さない、嘘にしかならない事実なのだ。
「ねぇ、翔くん。」
「ん?何?」
「からっぽだよ。結局は全て。」
「そうか。」
世界は無い、嘘だ。だから、終わりさえ来ない。反逆さえ意味を成さない。私たちは遅くなっていた歩調を少し速めて、前から目線を外さなかった。翔くんの発した、いつもより少し甘い声は、耳に響いた。その声は、まるで無粋で、でも毛布みたいだった。マフラーで口元を覆って、翔くんは携帯をしまって、川原を歩く。
そうやって、対面する現実は全部光に紛れて消えていく。何もかも、無かったように。けれど、冬の空気の匂いように強く消えない。



それがすべてで、からっぽなのだ。