幸福って、なんだろう。それを毎日考えていたのは、そう遠くない昔。けれどその後また色んな事が起こって、その考えからどんどん離れていっていた。考えていたことは、そう、ただ恋についてだった。
最近、その恋に本当に行き詰っていた。相手が体の関係は持ちたがる癖に、これっぽっち好きだとは思っていないみたいに見えたから。じゃあ私の存在意義は相手にとってただの売春婦じゃない、と思って、悲しくなっては、本当に枕を濡らす毎日、なんていうことをしてしまった。濡れた枕が頬に当たると気持ち悪いので、泣くときはなるべく枕の端っこの方で泣くという、いらない知恵までついた。

関係が始まった頃、それは確か9月も終わりに近づいてきた頃、私はこの人とそんなに長いこと一緒にいるとは思っていなかった。もし何回か会って、そういうことをしたとしても、まさか、よもや、歳を越しても続くとは思っていなかったし、実際ここまで相手に恋をするとは思ってもいなかった。恋よりも、少しオーバーな表現かもしれないが、愛しさ、の方が勝っていた。時間を重ねるごとに、いつの間にか、恋に変わった。独占欲や、構って欲しい気持ち、何とも言えないような切なさが、満載だった。

そんな相手が自分を只のゴミ箱の様に思っているとしたら、そう考えただけでものすごく辛かった。冷静に考えれば、そこまで酷い扱いはされていなかったけれども、本当に疑心暗鬼だった。
けど、私は絶対に相手の前では泣くものか、と心に決めていた。そんなめそめそしてるのは、嫌。腹括って、その関係に飛び込んだのは自分だ。泣かずにいよう、そう思っていたのに。



つまり、この間、私は彼の前で大泣きしてしまったのだ。自分の中の女の子な部分をさらけ出して、わんわん泣いた。私のこと身体だけだと思ってるんでしょ、とか、もう嫌だから止めて、とか、人の家の枕まで濡らして泣いてしまった。その時、彼はうんと冷静な表情で、手を休めないで淡々と行為を続けながら、本当にそう思うの?と繰り返し聞いてきた。聞く余裕なんてなくて、私は泣き続けた。きっと、私は変な子に見えただろう。癇癪を起こした女の子の完全系だった。
私の癇癪が少し治まると、相手は手を止めて、ごろんと横になる。そんな事ないんだけど。そう呟いた。思わず、じゃあどう思ってるの?と聞いた。(その時、本気で自分にムカッと来た。そんなこと聞くのってすごく情けない。)わかんない、けど、身体だけだとは思っていない。曖昧な答えを返された。
別に、好きっていう言葉が欲しい訳ではなかった。前の彼女の事が未だに忘れられないのは十分に分かっているし、私を一番だと思え、とも言う気はさらさらない。売春婦扱いだったら嫌なだけだったし、それに「本当にそう思うの?」という言葉には、今までそんな風に扱った覚えはない、という意味合いが込められている、と、思ったから。



けれども、都合の悪いことに、私の涙はなぜか治まらなかった。おかしい、途中で自分も気づいた。これは、ただの涙じゃない。呼吸が詰まってきた。これは、昔何度か経験したことがある。兄に殴られたことを思い出したり、それに関連した事が起こったときに出る、奇妙な現象。呼吸が荒く、頭がまるで、沢山の踏み跡のある泥になってしまったかのように、ぐしゃぐしゃになる。
ちがう、これ、ちょっと待ってて下さい、寝てて。そう言って、ベッドから抜け出して、水を飲んで、呼吸を整える。人の前で、しかもそんな無防備な状態でこれが起こるとは、予想もしていなかった。それに、こんなこともう終わったと思っていた。私はそれを治療済みの問題として、頭の奥底に隠していたのに。ご飯を食べている最中、昔の話なんてしたから、頭のどこかでスイッチが入ってしまったのだろう。そんな暗い話するんじゃなかった。
治まったよ、とは口では言うものの、どうにもおかしかった。



失礼なことだとは思ったけれど、私はその後しばらく、ひとりでぼーっとし続けた。彼がとりあえず私を放っておいて、眠ってくれたのが、救いだ。ひたすら暗い気持ちをどこかに追いやろうと、明るいことを考えた。大好きな歌、楽しかった瞬間。頭の中にとりあえずピーターパンの歌をリフレインで流し続けた。始めて、元気の出る歌というものに感謝した。そんな文句歌っているものはただの現実逃避を目的としているのだ、と考えていたけれども、それは時に必要なのだ。絶対。
ふと思った。私は紛れもない幸福であって、不幸ではないのだ。隣にはそれなりに素敵な時間を共にしてくれる相手もいて、素敵な友達もいる。今はお金にも困ってはいない。そして何よりも、私は多分誰かに愛されている。愛しい人がいる。
完全な幸福なんて、ないのだ。きっと皆歯抜けで、どこかに解れはある。けれども、幸福は必ずそこにある。見えにくいのだ。本当に見えにくい。そして、それはアルコールでも依存でも耽溺でも生み出すことのできる、少しだけ怖い存在。本当の幸福、それはきっと存在してはいけない。裏に隠れる不幸がなければ、それは多分ただの狂気だ。やっと、理解できた。



そう考えて、落ち着いてきた。気分転換に、彼の元彼女が置いていってしまったコジコジを手にとって読んでいた。頭の中はすっかりコジコジモードになる。こういうものっていいなぁ、そう思った。暗いもの隠しながら、明るく楽しいもの。生きていくための救い。(私は、こっそり彼の前の彼女さんのセンスを敬愛している。まだ彼の部屋に残る沢山の彼女の残骸は、どれもこれも素敵な雰囲気がするのだ。だから、正直その人に追いつける気はしない。暗い意味ではなく、本当の意味で、素直にそう思える。彼が未練たらしくなってしまうのも、仕方ないと思えるほどに。)
ふと隣の人が起きた。薄くつけていた電気を消して、私を引き寄せる。私も近づいて、目を閉じる。これでいい。しばらくこのままでいよう。



本当に濃度の濃い夜だった。太陽が見える間は絶対に引き起こせない、強烈な力を持つ夜。絶望も幸福も耽溺も愛しさも格好悪さも、何もかも、全てを繋げてしまう。とりあえず、暖かくて心地よかったから、眠れないのは分かりきっていたけれど、そのまま目を閉じた。