感情が大きくなればなるにつれて、なぜ事実は遠ざかるのだろう。



ここのところ、きちんと朝起きて夜に寝る生活を取り戻したけど、やはり、狂っているものは狂ったままだ。
自分を狂人だとはおもわないけれど、私はどうにも少し感覚がずれているのは承知している。多分、生きることについて、ものすごく疲労を感じているのだ。ひとつひとつの感情が大きくて、大げさすぎて、深刻すぎるのだ。だからこそ、毎日は戦いに近い。ひとつの出来事で生まれる沢山の感情を、すり潰したり、消化したりして生きていかなければ、いけない。
しかしながら、思考能力は、低下している。



ここのところ、自主性という言葉を失って、なにもかも人に言われるとおりに行動しているからだろう。それは楽なのだ。
人のために、という理由をつけて、自分の選択肢を作らないで済むことは、驚くほど楽だ。選択をしようと思えば、いくらでもそれは見つかる。リスクさえ考えなければ。しかし、私はそのリスクも、そして自分で行動を取ったという責任も、怖いのだ。そして、上手に立ち回れない自分なんて、見たくない。それに、思うとおりになった相手の満足げな顔は、思うより悪くない。
そういうと、まるで誰かの意見を傍観者として眺めて、うまく立ち回っているようにも聞こえるかもしれないけれど、違う。誰かから、何かを求められ、それにむかって行動することにさえ、私はひどく体力を使う。そして、感情を暴れさせて、いつかへたり込んでいる。



感情をフルに使うと、目が見えなくなる。盲目になる。現実に向ける気持ちよりも、自分の気持ちに忠実になってしまうから。そうやって、私は自分の世界で彷徨って、どんどん現実を見られなくなって、彷徨う世界はいずれ歪曲し、本当の世界から遠ざかり、ふたつの世界のギャップに悩むのだ。
現実は見えにくい。どれだけ現実主義だとしても、自分がある限り、それは、遠い。遠くて、確固としていて、歪んだりもせずに、そこに立っている。自分が楽観している時は、それは冷たく見え、悲観している時には、それは暖かくも見える。
感情は、ただ、曲がりながら確固とせず、ひたすら流れている。水のように、ではなく、油のような動き方をして。ふくらんだり、萎んだりもしながら。



毎日は、疲れる。すなわち、日常とは、疲れるのもなのだ。こんなにも、日常を愛しているのに。ご飯や眠ることや、友達と楽しく話すことだけでは、日常は成り立ってくれない。
裏切られたような気分さえしている。