まきおばちゃんのはなしをしよう。でも、まきおばちゃんのはなしは私のはなしでもある。



昨日、久しぶりにまきおばちゃんに会った。って言っても、一ヶ月ぶりくらい。結構な頻度で会っている。彼女は私の母親の姉で、とても威厳があって、かっこいい。そんなおばちゃんと私は仲がよい。母親を介さずに連絡を取ったりもする。そして、私の話を聞いてくれて、叱ってくれて、美味しいビールを飲ませてくれる。そこには必ず美味しい食べ物もある。



そんなおばちゃんは、不思議な人生を送ってきた。
小さい頃に、彼女は父親を亡くしている。確か、5歳くらいで。そこから、彼女は兄弟四人と母親と暮らしてきた。流石に女手ひとつで子供四人を稼いで食べさせるのは辛い。なので、子供の面倒は彼女らのおじさんが看てくれていた。と、そこで平和に過ごせれば何とかなったのに。彼女の母親は少し変わった人だったのだ。



彼女の母親は、お腹の底に不思議な怒りを持っている人だった。それは生きてきた毎日がとても屈折している所為でもあるけど、なにか不思議なエネルギーとバイタリティーを持っている人。それは真っ直ぐで、恨みが篭っている。犠牲的で身勝手で、恐ろしい。
そして、そういう人の言動は、あんまりにも率直過ぎるのだ。
隠し事や裏表がないといえば、素敵な聞こえなのだが、そういう話し方をする人は、ある一種遠慮というものがない。とにかく、言ってはいけない一言を簡単に口にする。そしてそれはある程度適切だ。ものすごく恨みがこもっていて、その恨みを隠そうともせず、まるで子供みたいな真っ直ぐさで言葉を発する。表面的に見れば、その人は活力があって生き生きとして見えるし、普段は物腰柔らかで、それなりにきちんとした優しさを持っているので、さらに手におえない。



そういう言葉をぶつけられると、相手は苦しくて重くて攻撃的な気持ちになる。相手の恨みの気持ちを真正面からガードもなく受け取ることになるから。そして、まきおばちゃんの家庭の場合、その母親の恐ろしい言葉を受け取る相手は、父親代わりのおじさんだった。とにかくよく喧嘩したらしい。そして、その間を取り持ったのはまきおばちゃんだった。それは本当に大変な事だったろう。母親の思うところをきちんと優しく表現したり、怒り狂う人をなだめたり。それ以外にも、日常で誰かの機嫌を上手にとらなければいけない。笑ったり、怒ったり、甘えたり、優しくしたり、ちょっと悪い子になってみたり、冗談を言ったり、嘘ついたりする。行動の目的は相手の事を宥めたりいい気分にさせる事。そして、その結果として、争いごとを避けること。それは時に徹底した自己犠牲が必要になる。自分を偽っているんだから。それを続けるうちに、どんどん自分が磨り減っていって、本当の自分とかが見えなくなるのだ。



そこから彼女は家から逃げるように、若いうちに結婚して、三人の子供を生んで、その後離婚。三人の子供はそれぞれグレて、全員家出。そして母親兄弟と喧嘩し、連絡を絶つ。カントリーミュージックの業界でこっそり活動をしながら、飲食の業界で仕事。怒涛の人生だ。そして、今は、三人の子供とも母親や兄弟とも仲直りし、みんなでよく集まって飲む。千代田区の素晴らしいマンションで、長女とたくさんの猫と暮らしている。今もなかなか大変なことを背負っているのだろうが、それでも昔よりは随分楽しいらしい。家族との繋がりが復活した分。



結婚したところから、彼女がどんな人生を歩んだかよく知らない。その時期、まきおばちゃんと私の母もすこぶる仲が悪かったからだ。母とまきおばちゃんが仲がよくなったのは、私が15歳のころだった。まだほんの数年しか私とおばちゃんの付き合いはない。しかし、不思議なほど共感できる部分を持っているのだ。
それは、彼女の自己犠牲の精神を私が受け継いでいるところ。(自分で言うと、ものすごくおこがましく、傲慢にきこえて嫌だけど。)
私の母と彼女の母は、性格がそっくりなのだ。率直で残酷なところが。その間を取り持つ辛さを知っている。相手の機嫌をとる方法まで同じ。そして、共に幼い頃兄弟から暴行を受けてきている。
だから、彼女と話していると、楽しい。そして、嬉しい。



昨日、おばちゃんといる時に、兄にちょっとした用事があって電話した。一分ほどの会話を、おばちゃんは横で聞いていた。(聞いていたって言っても、私の発言しか聞こえていない。)別に険悪なムードな時期でもないし、私と兄はとても普通に、笑ったりしながら電話して、適当に話をつけて、電話を切った。
ふと、おばちゃんを見ると、とても居た堪れないような、たまらない表情をしていた。
「シホ、おいで。」
と言って、私の頭を犬を撫でる時みたいに、撫でてくれた。
「えらいねぇ、あんたは。」
そう言った。
彼女はたった一分の兄と私の会話の中に、昔の自分を見出して、悲しく切なくなったのだ。小さな自己犠牲に気付いてくれた。そして、それが上手に出来たことを褒めてくれた。うんと嬉しくなった。
小さな自己犠牲は、だれにも気づいてもらえない。大抵のひとには分からない。だからこそ、自分が磨り減っていく。誰にも認めてもらえない苦労は、辛いだけで不毛なのだ。けれど、それをしなくなったら、すこしづつ何かが壊れていってしまう気がしてしまう。自己犠牲する事で、少しだけでも上手くいくことがあるから。



まきおばちゃんは、私みたいに、こうやって磨り減っていったのだ。そして、家族と仲を絶ってしまうまでの苦しみを抱えて生きてきたんだ。どれだけ長い間、そんな風に消耗だけしかしない中で生きてきたんだろう。その辛さは、誰も知らない。皆がおばちゃんから逃げた。私の辛さは、気付いてくれる人がいるだけまだ楽なんだ。彼女は、私よりもずっとずっと重い悲しい毎日をひとりで駆け抜けた。
まきおばちゃんには、不思議な威厳と、たくさんの慈悲がある。うんと素敵な人だ。



私のことを分かってくれて、ありがとう。