私はついにカウンセリングにかかりはじめた。




きっかけは、パッコだった。(2005-06-20参照で)パッコに会って、沢山の話を聞いた。そして、私も話した。私も彼女を見てきたけれど、彼女も私を見てきた。彼女は、きっと私のことをきちんと知っている。その彼女に、「シホ、あんまり辛いんだったら、専門家にかかってもいいと思うよ」といわれたのだ。相当、私はおかしく見えたのだろう。確かにおかしかったしね。翌日すぐに彼女の言葉に従い、学校に設置されているカウンセリングルームに出向いた。




上っても、下りてしまう自分の心が怖い。その感情は友達には表現しきれない。専門的な人間に対してしか、どうしても明かせない。友達を信頼している。しかし、どうしても、それを話す相手は友達ではなかった。上手に打ち明けられないのだ。専門的な人間は、そういう、暗く重い物を見慣れている。安心して打ち明けられるし、相手も傷つかない。
その日、カウンセラーに向かい、泣きながら沢山の事を話した。狭いカウンセリングルームは、居心地がよくて、そこだけくり抜いて私の精神世界になった気もした。カウンセラーの存在も含んで。案の定楽になって、何かが開けた気がした。しばらくの間、私は笑っていられた。
けれど、いつのまにか、下がっていた。小さな事で、生きることを放棄したくなる。生を放棄したいまま、生き抜く。




今日の昼間、二度目のカウンセリングを受けて、再び何かが開けた。成長欲とか、前向きとか、世界の暖かさを思い出した。それなのに、また下がってきているのだ。
慢性的な憂鬱。どうして私はいつだって生きにくいのだろう。その原因は、明らかに自分にあるのだ。カウンセリングにかかっても、友達と暖かな会話をしても、自分が歩かなければ、何処にも行けないのだ。私は、暖かなものを知っている。知っているのに、どこかに落ちていってしまうのは、そうだ、きっと、世界に期待しすぎているんだ。
歩かねばならない。生きなければ。そして、遠くまで、行かなければ。生きられない。