JR福知山線脱線事故について。

ずっとずっと考えていた事。
あの事件で悪いのは、JRのみだろうか。私は、本当に責められるのは運転手だと、思う。
あれ以来、ずっとニュースでは特集が組まれ、JRのずさんさが晒されている。たしかにボーリングやゴルフコンペはないだろう。あれはおかしい。人の死を知りながら、しかも自社の責任と知りながら、ずっと遊んでいるのはおかしい。
けれど、過密運行や教育方針を責めるのはおかしくは無いだろうか?
18年間、ずっと東京に住んでいる。そして、10歳から電車には定期的に乗る生活を送っている。山手線や総武線が到着するのはとても早い。けれど、常磐線の間隔は、少し長い。山手線レベルに慣れている私はいつもイライラする。どうしてもっと早く電車よこさないの!?と。そして、どれだけ過密なスケジュールで組んでも、山手も埼京線京浜東北線も、朝は大抵ぎゅうぎゅう詰め。痴漢も多い。もっとスペースがあれば、と祈りながら、身を捩って痴漢の手を払いのける。
そこから考えて、JRの過密運行は明らかに一般人のニーズに合わせたものだろう。私たちは毎日一分一秒を争う世界に生きている。ただのしがない学生でさえ。時間が欲しいのだ。そして、それに合わせて生活したい。移動の時間は快適に過ごしたい。朝の時間は、昼の時間の何倍も大切であろう。そのためにJRは秒まで細かくカウントして運行を進めなければならない。そのための教育方針が厳しい罰則へと繋がったのだ。健気ではないか。
そして、いつも思うのは、マスコミの『死者を冒涜してはいけない』という方針の捻じ曲がり。これで運転手が生きていれば『運転手の過去の闇!』などの特集で今ごろニュースはいっぱいな筈だ。けれど、彼は死んでいた。ある意味、幸福にも。もちろん、死んだ人を冒涜するのは道徳的にいけないことだろう。しかし、現実問題で言えば、死んだら罪が消えるわけではない。死んでしまおうと生きていようと、誰かを殺した事には変わりない。その人の経歴には107人の人を殺した、という事実は消えないのだ。それが自らの過失によることだって、消えやしない。しかしその怒りは、今は運転手よりも会社に向けられる。ずさんな態度だったのかもしれない。けれど、彼等が仕事に対し、ぞんざいな思いしか抱いていなかったか、そう考えると、どうにもそうは思えない。今回の事件を受けて、ショックを受けていないはずが無い。
どうしても、私は運転手が許せないのだ。あれだけ殺しておいて、ニュースの悪口、という最悪の鉄斎を露骨に受けないですんでしまった彼が。
そして、何かコメントはしにくいけれど、車掌さんの話。どうしても、どうコメントしていいのか分からない。http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0430ke92500.html

沢山の人たちのご冥福をお祈りいたします。