何処へ向かうか分からない毎日。本当に、今日衝動的にした行動が、明日何に変わっているかなんて、分からない。きっと、神様だって、知らない。多分毎日は本当に日常と非日常の間を彷徨い、誰の指図も聞かないまま、生きているかのように動いている。つまり、保証なんて誰もしてくれない。誰の大丈夫も、ただのおまじないにすぎない。絶対なんて言葉は、本当にこの世にない。
だから、どこにでも行ける。どこまでも行ける。そう信じることは可能だ。
だから、どこにも行けないと考える事だって、多いに有り得る。
それはその人の考えひとつ。けれど、常にオプティミスティックでいられる要素なんて、どこにもない。悲観しない人間は、少しおかしいと思う。世の中のペシミスティックではない大人は、全てバカだと思う。なにか、見据えなければいけない物事を放棄している。ただ、過剰なペシミズムはより全てを放棄していて嫌いだ。自分の不幸が心地よいと思う人間は、それに依存して死ぬしかない。生きながら、死ぬしか。



その中間を漂う毎日は、決して何の保証も無く、明日さえつかめず、不安しかない。だから、どこかに「帰りたく」なる。お家に帰りたい。その言葉は、家をメタファーとしてどこかに帰属し、守られることをのぞんでいるのだ。迷う選択肢も無く、心を乱すものがいない場所という比喩。決して、家庭ではない。神の下へと帰りたいも、等しい。完全に守られることを望むのだ。



それは、悲しいけれど、とても暖かい。醜いけれど、愛しい。守るべき何か。けれど、守るだけではいけない何か。家にずっといることはできない。私たちは、歩かなければいけない。少なくとも、向上心のあるうちは。